福島原子力発電所の事故から3年 南相馬市にて人々の暮らし

 

牛は牛舎にはもういない!

津波・放射能被害は広範囲に続く

4月6・7日に生活者ネットワークのメンバーと南相馬市に行った。『東北関東大震災障がい者救援本部』にかかわって来られた方の案内で、JR仙台駅からマイクロバスで最初に名取市に向かった。海岸から1Km・標高1.7mの仙台空港周辺、田んぼ面積の半分が浸水したゆりあげ地区、さらに南相馬市へと進む。原発からちょうど30Kmのところにある小学校では、海岸からは2Kmも離れているが、校舎の1階部分・校庭・体育館が津波被害に遭いそのつめ跡が残されていた。児童76人と先生11人は全員無事高台にのがれることができたとのことだが、その後児童数は減り、隣の小学校と統合することが決まり現在は廃校となっている。コンパスで描いた原発から30Km圏内では、生活支援費として月に10万円が支給されるが、圏外は支給されず地域住民の軋轢を生み出すことにつながってしまったと聞く。

この地で暮らし続けたい

その日の夜は、3つの『農家民宿』に分かれて宿泊。私は、壊れた防波堤からすぐ近くの民家に泊まる。小高い山の内陸側で津波から逃れ壊れずに済んだ民家は地形を生かした高台に建っていた。民宿の方々は私たちを明るく迎えてくれた。日中は夫婦ともに車で仕事に行き夕方は民宿を営むなど、少しずつ人々の暮らしは戻りつつあるようだったが、ここまでの道のりは長かったと想像する。周辺の田んぼは塩害を受け、今後大規模な太陽光パネルを設置する方向で話が進んでいるという。

 「居住制限区域」では仮設住宅暮らしが続く

ひと気のない住宅地を走り20Km圏内に入る。酪農で生計を立てておられた方の牛舎と居住制限区域で夜間泊まることができなくなった民家に伺う。本当は3世代で暮らす予定だった新築同様の我が家では暮らせなくなり仮設住宅の暮らしとなったが、ストレスや不満がたまるばかり。原発から18Kmで空間放射線量は0.4マイクロシーベルトある我が家に毎日のように通う。「ふるさとをどうしても取り戻したい、住みたいと思う地域を作っておかねばならない」「自分たちのことがようやく人に語れるようになってきた」と・・・