「豊かさとは何か」を教えてくれた水俣の人々

あれから52年目の慰霊式を終えて

水俣病の公式確認から52年となる今日5月1日。今年も熊本県水俣市の不知火海に面しているエコパーク「水俣病慰霊の碑」前で、水俣病犠牲者慰霊式が行われた。未だに、その埋立地・エコパーク(東京ドーム13.5個分・H2年完成)には、有機水銀で汚染された魚やヘドロが入ったドラム缶、約3,000本が沈められているとのこと。

その公害を起こしたチッソ工場は、明治41年に水俣で開業。化学肥料の生産から、日本の主要な化学工場となった。伴って水俣の町も発展していった。昭和7年から国が認める昭和43年までの36年間、疑わしい中、止めることなく海に有機水銀化合物を含む工場排水を放出し続けてきた。公式確認は、昭和31年であり、12年経過した昭和43年まで、国は、このことを認めてこなかった。一度汚染すると、回復には、相当な年月・労力・資金を要する。「負の遺産」を後世に残すことは、最小限に食い止めなければならない。この埋立地も後10年すれば、耐用年数に問題がでてくるとのこと。

チッソ水俣工場は、アセドアルデヒド・塩化ビニール樹脂・ポリプロピレン(ビニールなどの製造原料)、液晶、不織布などを主に生産してきたとのこと。化学工業製品を生産し続け、地球上に存在する以上は、「廃棄」までの工程もしっかりと考えた上で、製造すべきである。かつては、製造する際に公害を引き起こし、後に廃棄する際にも環境負荷を与えてきているこの現状をどう解決すべか。昭和45年に国で水質汚濁防止法が制定された。水俣市では、平成5年に環境基本条例制定に及んでいる。一方、ビニール製品などについて、製造から廃棄までを一貫して事業者が責任を持って回収・リサイクル・処理するシステムにはなっていない。

4月15日から2泊3日で水俣市視察に行ってきた。現在、ゴミの22分別の実施、小規模多機能施設「ほっとはうす」、「村まるごと生活博物館」事業、そして、安全性の高い農産物の出荷など、人々は、力を合わせて暮らしている。海から山へとすばらしい自然を有する水俣市。新ためて「人が暮らすということ」の原点を教わった気がする。しかしながら、この5月1日、東京に居て、水俣病犠牲者慰霊式のニュースは、どこからも聞こえてこなかった。

上記の写真は、「ほっとはうす」にある大黒柱と通っている方が合作で書かれた絵。下記は、廃線になった山野線の写真と見せてくださった方の手料理。「村まるごと生活博物館」事業の一環で神奈川から移り住んだ竹細工職人です。